大曲で花火を打ち上げた歴史は古く、文献上では大曲に花火らしきものが初見されるのは、菅江真澄著の「月の出羽路」の大曲の項に描かれている民俗行事「大曲の郷の民流」の挿し絵にあります。「月の出羽路」は文化・文政期に書かれた地誌ですが、その挿絵に、丸子橋の上を行く眠り流しの灯篭の群とともに、後方の川原で打ち上げられている狼煙(初期の花火)が描かれています。
 
資料はありませんが、伝えによると、当時、大曲は米産の中心であり、雄物川を利用した米・日用品・海産物などを満載した船便の発着する川港としても栄えていました。それにより、有力な地主・商人の繁栄も見え始めました。船の発着場周辺には豪商が軒を連ね、歓楽街・繁華街が形成され、商人の接待、また行事や祭などで、連日のように花火が打ち上げられるようになりました。これには、常盤から秋田藩へくら替えとなった佐竹の殿様に随行していた花火師が雄物川の氾濫で六郷に足留めされた際、地元の美人娘と恋におち、この地に住み着いたため、この大曲・仙北を中心に花火の技法が伝わったと言われており、需要に応える下地となっていったようです。

昭和6年(1931)花火大会の宣伝隊(高柳政治著「あの頃あの時」より)

「大曲の花火」は、明治四十三年(1910)八月二十六日・二十七日に、諏訪神社において六県煙火共進会として開催されたのが始まりです。そして、大正四年には今までの奥羽六県の大会から「全国花火競技会」と名称を変更し、大会の規模の拡大とレベルアップが図られ、花火業者は毎回新しい技術を取り入れながら、錬磨し、競い合ってきました。途中、戦争のため、一時中断はあったものの、2009年で83回の歴史を数えるにいたっています。
「大曲の花火」が、識者の間で最も権威ある大会として位置づけられているのは、花火をつくった本人が打ち上げなければならないこと、また、内閣総理大臣賞・経済産業大臣賞・文部科学大臣奨励賞・中小企業庁長官賞などが授与されることからで、全国の花火師が目標とする日本一格の高い大会です。
 
 

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大曲の花火
文と構成/LDT(
秋田県大仙市




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