角館の古代生活についてはまだはっきり分かっていない。縄文遺跡は多く確認されているが、発掘は進んでいないようだ。白岩地区から出土した焼き物は平安時代の須恵器で、のちの白岩焼(角館の伝統陶芸)にさきがけて、同地区で早くから陶器がつくられていたことを物語る。城下町としての角館は中世末期、戸沢盛安によって創建された。古城山に館を置き、その北側の山麓に城下町を築いた。しかし、戸沢氏が国替えとなり、あとについた芦名義勝の代には、その地が不利のため改めて元和6年(1620)に古城山の南側に新城下町を建設。当時は徳川幕府の体制の基礎づくりの時期で、元和6年は一国一城令が出された年でもあり、新城下町の造成は急を要したと思われる。
やがて芦名家は断絶、明暦2年(1656)久保田城主佐竹氏の一族北家の佐竹義隣が「所預り」として角館を支配した。以降、明治の廃藩に至るまで、北家は11代200年余続くことになる。北家初代義隣と二代目義明の妻が京都の公家の出身だったため、京文化も色濃く伝えられ、角館は城下町・宿場町として仙北地方の政治・経済・文化の中心地として栄えた。慶応4年(1868)戊辰戦争がはじまり、角館の岩瀬川原も戦場となり維新政府軍と旧幕府軍の激戦の末、明治維新を迎えることになる。
明治22年、城下町は岩瀬村と合併して角館町になり、さらに昭和30年に中川村、雲沢村、白岩村が合併し、新しい角館町が発足した。現在、町の主要な産業は米作と桜皮細工だが、文化財・史跡を生かした観光も町の基幹産業になっている。
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